戦後70年 戦争の記憶 - 馴柴第一国民学校が攻撃された日 -
まもなく終戦から70年を迎えます。
毎年,広島,長崎に原爆が投下された日や終戦記念日が近づくと,いろいろなテレビ番組で戦争に関する特集が放映されています。
関東地方では,東京大空襲などを取り上げた番組が多く見られますが,ここ龍ケ崎も戦争とは無縁ではありませんでした。
つぎに掲載した内容は,昭和20年当時,馴柴第一国民学校(現馴柴小学校)の教員として勤務されていた野口治男さん(故人)の回想手記「8月6日を忘れない」をもとに,教育委員会生涯学習課が編集したものです。
馴柴第一国民学校がアメリカ軍の戦闘機に攻撃され,死傷者が出たというお話です。
ひとたび戦争となれば,地方のまちも軍事施設や住宅,学校等の区別なく,戦禍に巻き込まれるという事例です。
戦争を知る世代が少なくなるなか,いまを生きる私たちも,このような出来事を記憶にとどめ,後世に伝えていきましょう。
昭和20年8月6日の出来事
昭和20年8月6日,アメリカ軍によって広島に原爆が投下された日,馴柴第一国民学校(現馴柴小学校)の上空に,硫黄島から飛来したアメリカ軍のノースアメリカンP51戦闘機1機が飛来し,常磐線佐貫駅近くの肥料工場を機銃掃射した直後に近くの馴柴第一国民学校を銃撃し,3人の死傷者が出ました。
当時,空襲の警戒警報が発令されると,学校では授業が中断され,児童は帰宅させることになっていました。
しばしばの警戒警報発令により,同学校では必要な授業数が確保できなかったことから,不足分を補うために夏休みを返上して授業が続けられていました。
この日も午前10時頃に警戒警報が発令されたため,馴柴第一国民学校の児童は校庭に整列し,教師たちに方面ごとに引率されて帰宅していました。
児童の帰宅に引率した教師たちが学校へ戻ると,空襲警報が出たため,その多くは校庭に設けられた防空壕に退避しました。
しかし,仕事が残っていた野口,鴻巣の両先生は職員室で執務し,用務員の関口さんも屋外で仕事をしていました。
その時,佐貫駅の方角から戦闘機の爆音と機銃掃射の凄まじい音が聞こえてきました。
驚いた関口さんは職員室に飛び込み,職員室内にいた野口,鴻巣の両先生も危険を感じて,外の防空壕に避難しようとしました。
席を立つや否や,ドッドッドッドッと銃撃音が響きました。同時に窓ガラスが砕け,天井や壁を貫通して砕く弾丸の恐怖の音が,戦闘機の爆音と重なって襲い掛かってきました。
席を立った瞬間,野口先生は右足に激痛が走り,その場に倒れ込みました。倒れざまに自分の右足を見ると,脛に丸く口を開けた傷口から真っ赤な血が噴き出していました。
一緒にいた鴻巣先生はガァンと叩かれたような痛みを,臀部に感じました。
そして,「助けて」と悲鳴をあげる用務員の関口さんが倒れていました。両大腿部と背中に弾丸が当たり,足は骨が砕けて露出し,背中には拳が入るほどの穴が開く重傷でした。
戦闘機が飛び去ると,防空壕に退避していた先生方のほか,この事態を知った警防団や近隣住民が集まりました。
傷の手当てをする人,野口先生の傷ついた脚に取り付いて泣く人,何をしてよいのか分からずウロウロする人など,職員室は騒然としていました。
集まった人たちによって,負傷した3人はリヤカーや戸板に乗せられて,川原代村の飯田医院へ運ばれました。
鴻巣先生は比較的軽傷で済みましたが,関口さんは手の施しようがなく,家族の希望もあって家に戻ることになりましたが,帰る途中で亡くなりました。
野口先生は重傷で,銃撃による傷と骨折で入院することになりました。このような痛ましい出来事があって10日も経たないうちに,日本は戦争に負けて終戦を迎えました。
野口先生は長い入院生活の後,仕事に復帰することができましたが,機銃掃射で受けた傷跡は消えず,毎年8月6日になると,それを見るたびに当時の様子を思い出したそうです。
※この文章を編集するにあたっては,野口治男さんの手記のほか,同手記を参考に記述された野口美朋さんの「故郷のみきゝ草-60年前の空襲を回想して-」を参考としています。
参考写真 P51戦闘機(写真は戦後50年を記念して竜ケ崎飛行場でデモフライトを行ったP51) Photo by Iino
参考写真 P51(手前)と並んで飛行する零戦
(撮影されたのは,くしくも1995年8月6日の「その日」。平和がなによりです。) Photo by Iino