頼政神社=よりまさじんじゃ(横町頼政通り)
横町から西新道に至る頼政通りの、西新道に交差する地点に近い所に駐車場があります。
かつてここは水田で、その中の小さな丘の上の大きな松の根元に祭られていたのが、頼政神社です。
現在は松の木に代わって大きなヤマハゼが立っています。
小さな小さな祠ですが、地元の人は「頼政さま」と呼んで崇拝し、800年以上も土地の信仰を集めています。
頼政の「墓」については、大同小異の説を持つ場所がほかに2カ所存在します。
特に龍ケ崎の場合は、頼政の墓なのかその子の仲綱の墓なのが二通りの説があり、これらの説の是非を問うことはもはや不可能と言わざるを得ません。
平安時代末期、いちはやく平家追討を図りながら敗死した頼政。
頼政は自害する際に家臣・下河辺行吉に自分の首を東国へ運んで葬るように命じました。
鎌倉時代になって下河辺が一族の守護神として、頼政神社を建てたと伝えられています。
平家打倒の先駆者であった頼政の墓は、下河辺氏やその領民にとって、精神的な糧になったに違いありません。
頼政神社は、新地開発における産土神の地位にもあったと考えられています。