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絹本著色十六羅漢像

更新日:2018年3月1日

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種別:絵画
指定年月日:大正6年4月5日
所在地:龍ケ崎市若柴町866番地
管理者:金龍寺
寸法:縦97.0cm、横40.0cm
絹本著色十六羅漢像(けんぽんちゃくしょくじゅうろくらかんぞう)16幅は、道元が宗から請来し、建長元年(1249年)1月1日、永平寺で羅漢供養を行ったとき、瑞花が現れ、「当山の褝法興隆の瑞兆である」と記す道元筆と伝えられる『羅漢供養記』が添えられ、『羅漢図讃集』にも収録されている。寺伝によると、のち鎌倉建長寺開山の蘭渓道隆に贈られ、執権北条氏を経て、新田義貞の手中に帰したものだという。
羅漢図の表現は、繊細な描線で謹直に描かれ、特に服飾にみられる諸色金泥をもちいた精巧な文様が特色である。概して描法は和風化されている。おそらく道元請来本を転写したものであろう。
金龍寺は、文明の末年(1486年)、越前慈眼寺の天真自性の流を汲む在室長端を開基に横瀬氏の菩提寺として上州太田にひらかれ、横瀬氏の一族・被官層によってまもられ勢力を伸ばしていった。
横瀬氏は、金龍寺の開山貞国から5代目の成繁から由良氏を称している。天正16年(1588年)、由良国繁は金山城から桐生城に移り、金龍寺も桐生に移っている。同18年(1590年)、国繁の母赤井氏は、名家新田一族の由良氏存続を秀吉に願出、常陸牛久の地をあてがわれている。その後寛文6年(1666年)に金龍寺は現在地に移り、この後「元弘元年(1331年)、新田義貞の菩提寺として天真自性がひらいた」という寺伝を未だに伝えている。
本画は、新田義貞が執権北条高時を滅ぼした元弘3年(1333年)頃の14世紀前半の制作と思われ、16幅揃った羅漢図の古作として当地きっての遺作であり、美術史的価値は高く評価されている。

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