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八坂神社本殿

更新日:2018年3月1日

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種別:建造物
指定年月日:昭和54年3月22日
所在地:龍ケ崎市4279番地
管理者:八坂神社
文治年間(1185~90年)、征夷大将軍源頼朝から地頭として常陸南部を領した下河辺政義が、龍ケ崎の開拓にあたり、台地にある高井の農民を移し、その村と寺院と天王社を分祀したのがはじめであるという。祭神は建速須佐之男命である。
土岐氏が龍ケ崎城主となった時、近隣に悪疫が流行し、死者が続出したので、八坂郷の神霊を奉迎し、笛鼓を鳴らし勇ましく祭事を行ったところ、忽ちにして神霊顕者し、悪疫を消除し平癒した。氏子はその神威に報謝し、分霊を上町に遷化した。
また、一説には天正5年(1577年)、貝塚原にあった時、八坂神社の別当をつとめていたという寺伝や、祭日に神官が寺にお供をあげる慣例や、7月27日の“つくまい”の神事に、寺の正面にお仮屋を建てる事等があげられる。
祭礼は正月元旦の祈念祭、1月13日~23日に行われる奉射(歩射)祭と節分会、2月17日の祈念祭と7月25日~27日に行われる祇園祭および10月17日に行われる新嘗祭がある。
〔建築概要〕
天正5年(1577年)遷宮された本殿その他の設営物は、元禄11年(1698年)6月腐朽甚しかったため再建されたものの、僅か17年を経た正徳5年(1715年)に祝融(火事)に見舞われ炎上した。翌享保元年(1716年)再建の起土に当たり、……建築の成ったのは実に享保20年9月で、20年の歳月を要したものであります。弊殿・拝殿も同時に造営されましたが、後の二構は後年改築されています。(以上、宮司和歌森善郎著「龍ケ崎の起こりと八坂神社」より引用)本殿建築は、桁行8.65尺・梁間6.55尺の本体部の周囲に回縁をめぐらし、正面に階段を設ける、所謂一間社流造の形式である。屋根は木羽葺で、正面の向拝は唐破風とする。化粧垂木は、二重繁垂木で、反り増し鼻こき等の手法はみられない。組物は、壁面から一手先出した出組とする。妻飾は、二重虹梁式であるが、それぞれの虹梁を壁面から支輪で持ち出す点に特色がある。本体軸部の丸柱の柱上部を結ぶ頭貫の木鼻には獅子の上半身を取り付ける。(正・背・側面の4本ともに虹梁風に唐草文を施す)本体部の壁面のうち側面と背面の3面とも中国の人物を配した浮彫を入れる。回縁下の床組は、三手先の組物を用い、一手先と二手先目の秤肘木の先端を延ばして挙鼻をつけるという賑やかさである。また、壁面全てに動・植物の彫物をはめ込む。
以上の本体部は、亀腹風石制基壇の上に乗る。向拝は、唐破風(茨垂木を用いる)で、虹梁の上に龍の彫物をのせて手挾は牡丹の丸彫とする。
享保の再建時の棟札が2枚ある。1枚は享保元年9月吉祥日のもので、棟梁名など職人名の記載がない。それに対して享保20年(1735年)9月23日のものは、「常陸国筑波作棟梁関口喜平次高嶋喜三朗」以下大工・木挽などの名前が記されている。前者が着工・後者が竣工時の棟礼と考えられる。

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